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World Peace from Kiyoshiro --imagine--

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忌野清志郎のイマジン http://www.youtube.com/watch?v=3iid-A6_CB4   天国もない、ただ空があるだけ 国境もない、ただ地球があるだけ みんながそう思えば 簡単なことさ 社会主義も、資本主義も 偉い人も貧しい人も みんなが同じならば 簡単なことさ 夢かもしれない でもその夢を見てるのは 君一人じゃない 仲間がいるのさ 誰かを憎んでも、派閥を作っても 頭の上にはただ空があるだけ みんながそう思うさ 簡単なこと 夢かもしれない でもその夢を見てるのは きみ一人じゃない 仲間がいるのさ (ほら、ここにいるぜ)

Les Amants du Pont-Neuf ポンヌフの恋人

小さいころは大人は恋なんてしないと思ってたことをふと思い出した。すごく小さいときただ好きだった男の子に心の中で好きと思っていて、でもべつにどうともなるわけでもなかったので、大人はへまをせずにすんなりと恋人同士になると思っていた。そもそも大人がそんなことをするなんて不思議だったし、なんか許せなかったのかもしれない。 映画の世界、ポンヌフで出遇う失明しそうなミシェルと怪我をした大道芸師アレックス。ポンヌフの橋のおじいさんとホームレス生活を送り、橋の上でときめいて、花火とともにその愛は燃える。でも何かの拍子にその美しい生活はとまる。失うものはなんだろう、これも捨てるべきか?あれは必要か?そう考え出すともう心は橋の上に居られなくなる。なぜ物事は上手くいかないのか。セーヌ川には嘆きと失望と永遠の愛と幸せが流れている。その上に架かる一番古い橋、ポンヌフは今もそんな人たちに色々な人生の場面を与えている。 恋はするのは簡単だけど、痛い目にあうこと、人を愛するのには責任があることを最近本当に知った。この映画には私自身とてもとても辛い思い出があるけれど、カラックス監督の素敵な作品のひとつです。 Powered by TubeFire

Girls in Uniform 1931 《制服の処女》ドイツ

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去る6月-7月に台北映画節という1ヶ月程度の期間で映画祭があったので、教材研究のクラスで意気投合した夜間部の友達リンヤーちゃんを誘って一緒に観に行ってきました。 どれも外国のB級、C級の映画でハリウッド映画があまり好みではない私たちにはぴったり当てはまりました。 特にどれが観たいと決めていたわけでもないので、 とりあえず一番都合のいい時間帯のやつを2枚買いました。 それが 《GIRLS IN UNIFORM》 です。 本家ドイツ語のタイトルだと《制服の処女》だそうな。 ちょっと危ない題名にアダルト作品では?と思う人もいるかもしれませんね。 そんなことは決してないのですが、ただ同性愛というジャンル には該当する映画です。 同性愛、如何わしい関係,,?と連想しがちですが、実際そうやって思っていた自分がこの映画を観終わってすっかり虜になってしまったんです。 この映画は1931年に発表されたドイツの作品で、あのヒットラーの独裁が始まる矢先に出来た映画なのですが、軍国国家を正に象徴するような厳粛で堅い学校という小さな社会で、マニュエラという両親を失くした女の子が生活し始めます。完全寄宿制の女学校で彼女たちは厳しい規則を守り続けようとします。 でも規則ばかりで頭の硬い子だらけ、ということでもないんです。 彼女たちは消灯時間後にこっそりおしゃべりしたり、好きなスターの写真や切り抜きを実はいっぱい隠し持っていたりと、みんなそれなりに共同生活を楽しんでいたのです。 そんなお茶目な生徒たちの憧れの的は若い美しい先生。他の先生たちがただ頭ごなしに先生という権力を振るう中で、彼女だけは違うんです。 厳しさの中にも愛情があって、誰しもに愛を与えてくれる先生。 そんな先生にマニュエラはいつしか母を慕う愛にも似た、彼氏を思う愛にも似たなんとも言えない感情を抱くようになります。 まあ、ある日マニュエラが先生から下着をもらったことを嬉しくってうれしくて口を滑らせてしまったので、先生との交流を断たねばならず、なんやかんやで学校中大騒動に発展するのですが、マニュエラは絶望して自殺しようとします。 マニュエラがいないことに気がついた生徒たちは先生たちの怒りも、厳しい罰則ももろともせず一心に彼女を探 します。 最後はマニュエラが助かって、女校長がよたよたと杖をつきながら構内へ歩いていくとこ

雑誌から想うこと

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高校の時、わたしはあるプレゼンテーションで日本のファッション雑誌についての憤りを爆発させたことがあります。   理由は雑誌の中の服はどれもこれも高いし、読者モデルたちが暴露した体験等を武勇伝のように載せたり特集をしていたからです。 特に性に関するトピックは若い読者にとってはとても関心の高いものだし、なければならないと思う。 でも、あんまりにも行き過ぎているのもあって、そんなの読めば若い女の子は我先にと処女を捨てることを望むだろうし、まぁそれはでもしょうがないとして、問題はちゃんとした性知識もないうちに、ただすぐセックスしなきゃ!とかこれがみんなやってることなんだっていう感覚を読む人たちに植え付けちゃうとこだと思う。 出版してる人は大人なはずなのに。 大人だからそうしてしまうのか- そんな雑誌のページをめくれば、セレブ系だとか~ミックスだとかは分からないけど必ず「やっぱヴィトン」みないなブランドがあれば自分に見た目高級感がくっついてくるってファッションが個人的に気にくわないです。 これがある種のジャンルを確立していることは間違いないし、それが見合う人たちもいて、そういう物が好きな人は本当にいるらしいけど、でもそういう雑誌を見て、流行だから、大多数だからって自分に無理してその流れの中にとけ込ませようとする雑誌、また溶け込もうとしちゃうのはやっぱりどこか痛い。  雑誌っていうのも社会の流れを大きく左右するもので、だから売れようが売れまいが、そういうアンティ現代流行雑誌なるものが世の中のスタンダードにドカっとやってくる時代も、ホントはありそうな気もします。 気取らずに生きるって、そうするって、やっぱ簡単にマネできないんだ。 それに憧れて、それでも躊躇するわたしは今日もそんなさりげない人達に憧れています。

Atayal族との出会い

実は今大学で台湾の現住民族、タイヤー族の言語研究をしています。 研究と言ってもわたしはボランティア程度でしか先生のお手伝いができないのですが意外と興味深かったのです。 そのルーツは日本の統治時代にまでさかのぼります。 彼らが普段使う言語はクリオールという分類にあたるのですが、なんと日本語とタイヤー語、本土の北京語等が混じり合った世にも奇妙な言語なんです。 でもそれが一色単になって彼らの日常的な言語として確立されているからすごいですね。   日本政府の統治時代に、日本の教育を受けた現在75歳以上のご老人たちが、日本語使用禁止となった後何十年程経った今でも、子どもの頃わずか1~6年間で覚えた日本語をはっきりと記憶しているし、流暢に会話をすることができます。 ただ年代別にすると60代以下の村人では中国語の使用頻度が高くなり、子どもたちに至っては大半が中国語しか話せません。  これまで2回、彼らの部族が住む村を訪れ調査をしましたが、ターゲットであったお年寄りが外部から来た現地調査をなのる輩にそう簡単に心を開いて話してくれなかったり、調査そのものが何なのか全く理解されなかった為に、なかなかいい結果を出すことができずにいました。 そんなわけで四苦八苦していたのですが、前回現地調査の途中で偶然出会った村の少年に半ば間に合わせで調査の協力を頼んだところ、なんとその少年の言語能力の素晴らしいこと! 私たちは希望と進展を感じました。   彼は16歳なんですが、ため息が出ちゃうくらい純粋で賢い少年なんです。村の教会にあるたった一台のピアノを弾きに行くのが唯一彼の楽しみだそうです。ピアノは小学生の頃音を聞いて弾きはじめ、耳を頼りに何曲も覚えたと言います。耳が良いというのは言語を学ぶ上でとても大切な要素で、ピアノを弾き歌う彼を見ながら、これが才能なんだ…と感嘆しました。 素敵だったのは、家の中で彼はいつもクリオールを使って家族と会話をしていると言うのです。外のものをもっともっと吸収したいという柔軟な彼の態度からは、年配の方たちがもつ拒絶感は全く感じられませんでした。彼にはそのまっすぐで澄んだ眼差しをいつまでも持ち続けてほしいと願うばかりです。

My Demo - the Material for the Silent Way

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t i me,w o nderful, p i ne a pple, beh i nd, l o vely, l a dy, g a rden この図最初に使って5つの異なる発音を5色で示し、生徒に覚えさせます。 これは一番初めにやると、後でこの5色を使った色々なパターンでクイズなどに応用できます。

The Silent Way

-まずこの方法の基盤になる概念を考え出したのは Noam Chomsky という言語界では超有名な人です。  ある日彼がALMに疑問をなげかけたのがきっかけでした。  というのもChomsky曰く、言語の習得には 「言葉を学習者が自ら生み出さなきゃ実際の場でコミュニケーションにならないんだから、 そんなALMの授業は実生活で役に立たないのでは?」ということ。うーんほどなるー。  チョムスキーのそんな考えを元に、 Gattegno という人が ここでのSilent法を教育界に発信したんです。  それは先生が生徒から自発的に言葉を発っするよう促すために 必要最低限なこと(instruction)ぐらいしか喋らないというスタイルです。  このとき先生は必要に応じて生徒の母国語で指揮をとっても良いことになっています。 ですからこのSilentは実は先生の沈黙を指しているんです。  先生はとにかく喋らないけど、生徒をリードするために無言ながら ジェスチャーやスライド、その他あらゆる小道具等を駆使します。  必死になればなるほどその光景は微笑ましいですがね。  そう、授業はあくまで生徒たちがメイン。  生徒は逆に先生の沈黙を破るためにとりあえず 何かを喋らなくてはいけないので、 ある程度までの言語レベルを生徒自身がすでに身につけていることが この方法で授業が出来る第一条件となります。  またサイレントのクラスでは宿題はふつう出しません。  普段は自発的でないクラスが、とても和やかで楽しい雰囲気 になっちゃうかもしれない素敵な授業方法です;-)   

The Audio Lingual Method (ALM)

-ALM= A udio L ingual M ethodは Linguistic (Charles Fries 1945)+Behavioural psychology( Skinner 1957) の足し算から生まれました。  このALMの足し算の内訳は、S tructural Linguistics (人が新しい言語を覚えるとき、まず その言語の分構成を知ってなきゃ話にならないということ)   と Behaviourism(誰かをマネして、しかもそのモノマネを何回も くり返すうちにその言葉を自分のものにしてしまうこと)です。 Audioなので、耳で聞くわけですが、 教材はマネのしやすい会話文が多いです。  流れとしてはListen→Memorise→Read it Out→Practise it Over and Over→Okです。 先生は生徒が学んでいる言葉を コミュニケーションとしてではなく、 言語学的、理論的に見ます。  基本的に目標の言語のみの授業になりますが、 DMほど文法やら発音やらの正確さを厳しく問うことはありません。  習慣的に語学力を習得させるのがALMの目的ですが、 マネすることが前提なので、生徒が自ら頭に浮かんだ考えや 言いたい言葉を文章にしたりする創造性はここではタブーとされます。 先生はそういった生徒と生徒の真似事のやりとりを見て、聞いて評価をします。

Direct Method (DM)

-GTMに続いて長い歴史を持つ方法です。 というのもGTMが最古の教え方としてスタートしてから月日が経ち、段々とその学習効果に異議を唱える人々が現れたからです。 彼らはGTMのようにすぐに生徒たちの母国語に訳してしまうのは生徒らの外国語の勉強にまったく役に立たないよ!と反論したのです。 DMはその名の通り「言語を直接習得する」という大胆な学習方法です。 というわけで生徒たちの母語、また他民族からなるクラス構成の場合は彼らの主要コミュニケーション言語なども一切使用禁止です。 したがって授業は全て取得目標である言語のみで行われます。 そしてDMでは理解の正確さがよく問われます。 例えば生徒の間違えに気づいたら、先生はすぐに直接、またはそれとなく生徒にその間違いを直すようにもっていきます。 聞き取り問題などに取り組むパターンなどがDMの授業としては良い例です。 この間違いなおしのために生徒と先生のコミュニケーション効果はGTMよりも格段に高いです。

Grammar Translation Method (GTM)

-GTMは最も伝統的な教え方です。 大昔からあるため以前はClassical Methodとも呼ばれていました。   Classical Methodはコミュニケーションをとることを目標としていましたが、 時と共にその風潮はなくなり、 ただ生徒が文学上の観点から見て、 ちゃんと文法や意味、構成などが把握できているかどうか を見るものになってゆきました。  したがって多く見られるのが先生が文章などを翻訳しながら 説明していくという授業です。  中学時代の英語の授業を思い出せば大概想像がつくと思いますが、 GTMのクラスではコミュニケーションはほとんど見られません。  宿題があるとすれば作文を書く、又はリーディングをするなどでしょう。